10代横綱

雲竜 久吉
(UNRYU KYUKICHI)


-弟を養うために-
雲竜型の土俵入りの創始者のように今日に名前が伝わっている。本名は塩塚(のちに佐藤)久吉。

半農半漁の家庭の長男として生まれる。数え12歳の時に両親を疫病で亡くし、幼い弟を養う為に大人に交じって力仕事をしていた。

怪力ぶりが噂を呼び、大坂の陣幕長之郎に弟子入り。1842年にデビューする。


-江戸相撲で大活躍-
1847年頃までには大坂若手の有望株の一人という評価を受けるようになり、47年11月に追手風喜田郎に弟子入りして江戸相撲に参戦する。

毎場所のように好成績を残すどころか、ほとんど負けずに52年2月に入幕を果たす。

幕内でも勢いは全く失われることなく、入幕から4場所連続で幕内最優秀成績を残す。これは大相撲の歴史において現在に至るまで雲竜ただ一人である。

58年1月についに大関の栄位を勝ち取る。実に数え37歳の遅咲き大関であった。

既に全盛期を過ぎていた。平幕時代に.967だった勝率を大関では.743と大きく下げている。61年9月に吉田司家から横綱免許を授与されるが、満39歳での授与は功労者への御褒美的な意味合いが強かった。


-雲竜型の土俵入りの創始者-
雲竜型土俵入りは彼が行ったものとされている。しかし、錦絵などから判断する限りはせり上がりの際に翼を広げるように手を広げている。これは不知火型に見られる特徴である。

どこかで名前が入れ替わってしまったという説もある。雲竜が不知火型のせり上がりをしていた一方で、不知火が雲竜型のせり上がりをしている錦絵が残されているからだ。

これに対して入れ替わりではなくせり上がりの形が変化して今に伝わっているだけという説もある。

引退後は1884年の天覧相撲を成功させた功績が光る。

また、事実関係が怪しいとされる初代明石、2代綾川、3代丸山が公式に横綱に認定されたのも彼の尽力が大きいとされている。

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