関脇

天竜 三郎
-春秋園事件の首謀者-

生年月日 1903年11月1日
初土俵 1920年1月
新十両 1927年5月
新入幕 1928年5月
最終 1932年1月

得意手 右四つ、吊り
四股名変遷 三方ヶ原→天竜
所属変遷 出羽ノ海(→出羽海)
通算成績 171勝85敗18休6分(34場所)
幕内成績 98勝44敗11休1分(14場所)
幕内準優勝相当 2回
十両優勝1回、三段目優勝1回


-春秋園事件の首謀者-
大相撲史上最大の騒乱であった春秋園事件の首謀者。1903年11月1日に静岡県浜松市に生まれ、本名は和久田三郎。

勉学の道を志した時期もあったが、体が大きくなり常陸山と出会った事を契機に角界入り。この時、常陸山がやたらと祖父の体を褒めたと伝わっているので大柄な家系だった模様だ。


-武藏山との出世争い-
出羽ノ海部屋から1920年1月場所で初土俵。22年に心酔していた常陸山が亡くなると元気を失い出世のスピードは芳しくなかった。しかも、達筆過ぎて、幕下時代は手紙書きを任せられて稽古に専念出来ず低迷していた。それでも長身を活かした右四つ相撲で28年5月に新入幕まで漕ぎ着けた。

その後、同部屋で6歳年下の武藏山が史上最年少記録を更新しながら出世してきて、これが天竜自身にも刺激となり天竜の出世スピードもアップしていく。30年5月には関脇昇進を果たした。31年の満州巡業では楽日に武藏山と対戦。この一番は水入りの大熱戦となり、翌日取り直しとなった。

新関脇からも6場所連続勝ち越して大関目前だった。

ところがこの時期、天竜は心の葛藤と闘っていたのである。天竜は相撲界の不合理さに耐えかね、ついに事件を起こした。背景には常陸山の「力士は協会の操り人形ではいけない」という言葉があるとされる。


-事件後も相撲界に貢献-
関西相撲力角協会解散後は相撲指導者として満州で活躍。1941年から協会の顧問に就任し協会の満州巡業をバックアップ、敗戦後は長春の日本人の引き揚げにも大きく貢献し、帰国後も相撲解説者としても活動した。戦中、終戦直後の満州での功績が評価され吉田司家から48年、故実門人を授けられている。

故実門人は時に横綱免許と同列に語られる程の価値を持つ。

解説者としては歯に衣着せぬ評論で人気があった。今で言えば北の富士さんを思い起こすが、もう少しラディカルだ。

相撲協会の財団法人としての在り方が問題になった際には国会にも招致され、私見も交えて証言。問題点の多くが事件当時の主張と重なる部分が多く、天竜は再評価された。

晩年は出羽海一門友愛会の会長にも就任し、達筆でも有名。東京江東区の富岡八幡宮に行けば、彼の達筆ぶりが見られる。また、餃子で有名な銀座天龍は彼が始めた店である。

                         

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