大関

大ノ里 萬助
-悲境の大関-

生年月日 1892年4月1日
初土俵 1912年1月
新十両 19??年?月
新入幕 1918年5月
最終 1931年10月

得意手 突き 押し
四股名変遷 大ノ里
所属変遷 若松→湊川→出羽海
通算成績 262勝160敗8分4預22休(?場所)
幕内成績 217勝147敗6分4預22休(37場所)
幕内最高優勝 0回
幕内準優勝相当 ?回
金星 2個


-春秋園事件最大の犠牲者-
小兵ながら正統派相撲を貫き、土俵に対する真摯な姿勢から高い尊敬の念を集めながら、余りにも淋しい最期を迎えた大関。本名は天内萬助。


-熱心な稽古-
同郷の綾川が新十両の際に凱旋。駅のホームに詰めかけた小学生たちの熱烈な祝福を見て角界入りを決意。

当初は若松部屋に入門。1912年1月に初土俵。稽古熱心で素足で高砂一門の部屋を次から次へと渡り歩いて稽古に励んだ。

1918年5月に新入幕。


-大関昇進、角界随一の人気者-
1920年1月に鳳を破り初金星を獲得。22年1月に小結、5月には関脇に昇進。

優勝こそなかったが、165cmあるかないかの体格で正統派相撲に拘る姿勢で人気も非常に高く、また稽古熱心に加えて若手への指導も熱心で人望も厚かった。

24年5月には大関昇進。その後7年間大関を務めた。


-悲劇の結末-
1932年1月6日、天竜を首謀とする春秋園事件が勃発。関取62名中48名が離脱する大騒乱に発展した。

同調する力士が増えたのは天竜のカリスマ性に加え、大ノ里の人望があったからだ。

大ノ里は角界への貢献は抜群で引退後の生活も保証されていたが、それを投げ捨て、天竜と共に行動した。

しかし、現実は無情だった。独立興行は行き詰まり、愛情をもって稽古をつけてきた若手力士は次々と離脱して協会に帰参。私財を投じて興した団体は解散し、38年1月22日に満州の大連の地で客死した。

大ノ里に協会に戻らないと言いながら数日後に戻った綾桜が協会の満州巡業の際に個人行動で死に瀕する大ノ里を訪問した。その時に大ノ里は罵声を浴びせるどころか、声をふるわせ涙を流して再会を喜び、裏切った弟子の判断が正しかったと褒めた。

天竜がその後、相撲協会から厚い待遇を受けたのとは余りにも対照的である。
                         

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