大関

小錦 八十吉
-黒船と呼ばれた衝撃の力士-

生年月日 1963年12月31日
初土俵 1982年7月
新十両 1983年11月
新入幕 1984年7月
引退 1997年11月

得意手 突き、押し
四股名変遷 小錦
所属変遷 高砂
通算成績 730勝498敗96休(93場所)
幕内成績 649勝476敗90休(81場所)
幕内最高優勝 3回
幕内優勝同点 2回
幕内準優勝相当 7回
三賞 10回(殊勲4、敢闘5、技能1)
金星 2個
序二段優勝1回、序ノ口優勝1回


-黒船-
そのインパクトから1853年浦賀に来航したペリーの黒船に例えられた外国出身力士。歴代最重量力士でもある。

米国ハワイ州オアフ島で1963年12月31日に生まれた。本名はSaleva'a Fuauli Atisano'e 。

正義感が強く弁護士を志していたが、高見山のスカウトを受けて、1982年7月に高砂部屋より初土俵を踏む。

新弟子検査では体重計は測定不能(Maximumは150s)し、2台で計測。血圧計は腕が太すぎて、血圧は測定不能と黒船ぶりを発揮した。

-蔵前最後の場所で衝撃-
元横綱・朝潮の高砂に部屋伝統の押し相撲を叩き込まれた。合言葉は「プッシュ、プッシュ」。

7場所連続勝ち越しで1983年11月には新十両。84年7月に新入幕。

そして84年9月場所は大相撲史屈指の衝撃の場所となった。若嶋津の綱取りや蔵前国技館最後の場所として話題が多かったが、そのような話題は小錦の前に吹き飛ばされた。

入幕2場所目、西前頭6枚目の小錦は10日目を終わって8勝2敗と好調。審判部は止め役カードを切るものの、11日目から横綱・隆の里、若嶋津、大乃国を立て続けに破り止まらない。

14日目は横綱・千代の富士と対戦するが、3発で向こう正面に押し出してしまう。この呆気ない取組は大相撲史屈指の衝撃の取組として数えられている。第一人者が入幕2場所目、相撲歴3年未満の力士に手も足も出なかった。

千秋楽こそ頭をつけて長期戦に持ち込んだ琴風に敗れて優勝こそならなかったが、12勝3敗の好成績。成績以上のインパクトを残す。

千秋楽表彰式後の蔵前国技館のお別れセレモニーに際しては元NHKアナウンサーの志村正順氏に「今に至る小錦時代」とまで言わしめた。文脈は時代時代の名力士を挙げていったもので羽黒山、千代の山、栃錦、若乃花、大鵬らと入幕2場所目の小錦が同格に紹介された。それほど衝撃的だった。


-綱には届かず-
三役昇進後も大関級の成績を残しながら怪我もあり、なかなか大関に手が届かなかった。

1986年5月場所8日目の北尾戦で鯖折りを喰らい敗れた時に右膝を骨折。これが相撲人生における致命傷になったという声は大きい。この一番は取り直しの一番で取り直し前の一番では小錦優位にも見えただけに惜しまれる。

怪我から復帰した小錦は87年5月場所後に大関昇進を決めた。初の外国出身大関の誕生である。

横綱は時間の問題かと思われたが、昇進後の小錦は膝の影響からか不振に陥る。

このまま終わるかと思われた89年11月場所で14勝1敗の成績で初優勝。優勝を決め土俵下に降りると人目もはばからず泣いていた。これは「なぜもっと早く優勝できなかったのか」という悔し泣きだと小錦は語っている。

91年5月からは全盛期を迎えた。5月は14勝1敗で優勝同点。7月は12勝して優勝次点の成績を残すと、9月も11勝、11月は14勝1敗で2回目の優勝、1月は12勝3敗、3月は13勝2敗で3回目の優勝。

しかし、無情にも横綱昇進の吉報は届かなかった。そればかりか小錦が「横綱になれないのは、人種差別のせいだ。」と発言したとされ騒動にもなる。実際には本人ではなく付け人が発言したと言われている。

これで気落ちしてしまったのか成績は下降する。膝の怪我で稽古量を調整せざるを得ず体重は250sを突破しスピードが完全に失われ、曙や若貴兄弟の台頭もあり大関の地位を守るのが精いっぱい。

95年11月場所13日目にハワイの後輩である曙に敗れて負け越し。ついに大関の地位を失った。この時、曙が小錦を寄り切った直後に頭を下げて謝罪したシーンは人々の脳裏に刻み込まれたことだろう。


-人気者、小錦-
小錦の本領はここからだった。

平幕に落ちても元気に土俵に上がり続けた。体重は300sに迫る勢いだったが、土俵際で驚異的な粘りを見せ場内を沸かせた。

取り口もモデルチェンジしプッシュ戦法は足がついていかず、無理なので捕まえてから巨体を活かして前へと運ぶ相撲になっていた。

どちらかというと国技を破壊する悪役的なイメージが強かった小錦だったが、平幕に下がってからは大がつくほどの人気者に。連日、大歓声を浴びていた。

特に1997年9月場所11日目。それまで白星のなかった小錦がその場所優勝した横綱・貴乃花に対して左を差してから一気に出て、土俵際追い詰めたが、最後は上手投げを喰らって敗れた。その一番で敗れひきあげる小錦には地鳴りのような大声援が浴びせられた。

97年11月場所13日目を最後に引退。

引退後は一時、年寄・佐ノ山を襲名し後進の指導にあたっていたが、タレントに転身し明るいキャラクターを活かして活躍している。

中央競馬の馬券の一種であるワイドが導入された時のCMに出演。服を買う時に2着までと注意され、「3着までいいでしょ」と反論し、分身が出現するCMは高見山ほどのインパクトは残せなかったが、当時はかなり話題になった。リンク参照。

最近は長生きしたいと一念発起し、体重をかなり落として150s前後となっている。


  

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