-3人の同期を追って-
入門は若貴筆頭に史上最高のメンバーとまで言われている1988年3月初土俵組。いわゆる「花のロクサン組」だ。同期には貴乃花、曙、若乃花、和歌乃山ら。

序ノ口に出た1988年5月初日に小林に勝って、通算1047勝の第一歩を踏み出した。3番目の相撲で若花田(後の若乃花)に敗れている。

92年1月に新十両。19歳の若さだった。同期で同学年の貴花田は既に最高位は小結でこの1月に史上最年少幕内最高優勝を果たした。

93年5月に花の新入幕。一度は十両に降格するが、11月に幕内に戻ってくると、この場所で10勝を挙げる。あわや敢闘賞という成績で幕内定着に成功。

遠くにいった同期の3人の背中も再び見えてきた。94年3月中日に曙を破り金星を獲得。5月に新小結、95年1月には新関脇でいよいよ大関候補に名乗り出た。


-大関への道-
12場所連続で関脇の座を守って迎えた1996年11月に11勝4敗で5人による優勝決定戦に進出した。

翌97年3月も12勝で優勝決定戦に進出。成績面でも同期と遜色がなくなってきていた。右上手さえ取れれば、貴乃花や曙とも充分に相撲が取れた。

さらに相手力士を恐怖となったのが、小手投げ。怪力・魁皇だからこその技だが、これが多くの力士の肘を破壊し、一部では破壊王とも呼ばれた。

ここで魁皇自身を故障が襲う。97年5月も10日目までに7勝、大関へ2桁勝っておけば、7月は正真正銘の大関リーチとなる。

ところが、11日目の貴ノ浪戦で左足の付け根を痛めてしまい途中休場。当時あった公傷制度で7月を全休し、9月に復帰したが、状態が思わしくなく再び途中休場の憂き目に。

98年も上位でまずまずの成績を残したが、もともと技術で相撲を取るタイプではなかったので、怪我の影響でフルパワーを発揮できないとなると苦しかった。

千代大海、出島、武双山といった力士に大関争いで先んじられ、右膝の怪我も重なる。もうダメかと思われた2000年5月に14勝1敗で初優勝。7月も11勝して大関昇進を決めた。


-不本意な綱取り-
大関としても新大関から3場所連続2桁白星。2001年3月は初日から12連勝で2回目の優勝。

横綱へのチャレンジとなった5月は椎間板ヘルニアで途中休場。しかし、当時の魁皇は強く、7月は千秋楽を待たずして14日目に優勝を決めた。

再び綱取りの場所となった9月は初日に実力者・若の里に敗れると、2日目には新鋭・朝青龍にも敗れる。3日目に取組前の武双山-琴光喜の一番が水入り、それでも決着がつかず二番後取り直しになる21世紀の相撲としては異例の展開に。

長時間座っていたことで腰痛を悪化させてしまい3日目も黒星。翌日から休場した。

優勝しては次の場所で怪我で途中休場を繰り返し、周囲の期待を裏切った。なにより本人が一番辛かっただろう。


-思わぬ落とし穴-
土俵の主役はすっかり朝青龍に移った2003年7月、朝青龍不在のこの場所で魁皇は12勝ながら4回目の賜杯。

3回目の綱取りとなった9月は初日から4連勝。横綱への期待が高まった5日目の相手は高見盛。右差しが入れば大関クラスにも引けを取らない高見盛だが、逆を言えば右を封じれば、魁皇ならまず問題ないはずだった。

ところが、この一番に限ってはなんと高見盛が左を差してきた。完全に意表を突かれた魁皇は対応仕切れず呼び込んでしまいあっけなく土俵を割った。いわゆる「高見盛の幻の左」である。

この一番で気落ちしたのか魁皇は結局、7勝8敗で負け越してしまった。

3回の綱取りで3回とも勝ち越しすらできないのは魁皇くらいである。


-横綱に一番近づいた夜-
2004年9月に5回目の優勝を13勝2敗で決める。

既に32歳であり、横綱へのラストチャンスと見る向きも少なくなかった。

魁皇にはアドバンテージがあった。それは4回目の綱取りを初めて地元・九州で迎えられる点だ。今、思い出しても魁皇の九州での人気はちょっと異常なものがあった。

連日の大声援を背に受けて土俵に上がる魁皇は初日こそ琴光喜に不覚をとったものの、持ち直し2日目から8連勝。初めて綱取り場所で勝ち越しを決める。

9日目に新鋭・白鵬に敗れて2敗目。朝青龍は全勝をキープしておりもう負けられない。12日目には雅山にも屈して3敗目。昇進は絶望的になった。

ここから事態は急展開する。13、14日目と連勝し千秋楽を迎える。既に優勝は朝青龍に決定していた。ところが、審判部長の元大関・大麒麟の押尾川が千秋楽に朝青龍に勝てば横綱昇進を示唆したと受け取られかねない発言をする。

これがファンにも伝わり、消化試合のはずの千秋楽、会場のボルテージはヒートアップした。結びの一番では魁皇コールが鳴り響く。会場である国際センターがこんなにも盛り上がったのはいつ以来だろうか。

魁皇は結びで朝青龍に相撲を取らせず、左四つ右上手の磐石な相撲ぶりで完勝。粘る朝青龍を寄り切った瞬間、横綱昇進を確信した地元ファンは大熱狂。当時はまだ九州でも座布団が投げられたので座布団も舞いに舞った。

が、取組後、無情にも横綱昇進は見送られた。


-怪我との闘い-
一応、2005年1月も成績次第では横綱昇進も・・・という綱取り延長戦のような場所になった。

しかし、左肩の状態が良くないまま場所を迎え、途中休場。

05年は特に前半、朝青龍が隙らしい隙がほとんど見られず、魁皇は6場所中、3場所しか皆勤できなかった。

06年に入ると状態はさらに悪化し、綱取りという声は消え、大関の地位を守るの精一杯という感じに。

関脇に落ちても相撲を続けるとは思われておらず、いつ引退してもおかしくない感じだったが、08年頃から状態が上向き始め、一発一発が重そうな突っ張りが出るようになった。

10年11月にはついに6年ぶりの12勝を挙げる。

11年7月場所7日目に安美錦に勝って通算1047勝目。まだ、充分相撲が取れそうな雰囲気もあったが、これが最後の白星になり10日目の琴欧洲戦を最後についに引退を表明した。

一度は引退寸前まで落ちた体調を既に30代後半だった2008年頃に再び上げてきたのが非常に印象的である。

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