押尾川独立騒動
-二所ノ関の後継になれなかった押尾川が反旗-

長年、「分家独立を許さず」の不文律の下で独立を認めてこなかった出羽海一門に対して「分家独立を奨励す」の下で独立を奨励してきた二所ノ関一門。二所ノ関一門でも片男波独立騒動のようにトラブルになったケースはあるが、それだけではない。

二所一門の本家である二所ノ関部屋は大鵬を輩出し一時代を築いたが、大鵬独立後は急速に勢力が衰えていった。加えて元大関・佐賀ノ花の二所ノ関自身の体調が思わしくなくなり1964年、困ったおかみさんは現役大関・大麒麟に後継者になって欲しいと懇願した。

大麒麟は1964年11月場所4日目に突然の引退を表明。師匠の病状はかなり悪化しており、引退し押尾川を襲名した。

1965年3月28日に二所ノ関が亡くなる。

周囲も押尾川が後継になるだろうと思っていたが。ここで大鵬の後援会長である萩原吉太郎氏から待ったがかかった。萩原氏は二所ノ関死去後は大鵬が二所ノ関を継ぐという念書が存在すると主張、一方の押尾川も後継になるべく師匠の体調面を考慮しわざわざ現役引退をしたのだからそんな話は飲めるわけがない。

両者の主張は平行線を辿り、ついに5月場所が近付いてきた。師匠がいない力士は本場所に出場出来ない。一時的に最長老である元幕内・十勝岩の湊川が暫定的に二所ノ関を襲名し5月場所はなんとか乗り切った。

場所後に大鵬が二所ノ関後継辞退を表明。大麒麟が後継の座に収まり解決かと思われたが、事態はさらに深刻化する。

暫定二所ノ関の下で臨んだ7月場所は平幕・金剛が予想外の快進撃を見せ優勝。金剛は場所後に関脇まで昇進し、この男こそ二所ノ関後継に相応しいとする声が広がり始めた。

さらに金剛は9月5日に先代二所ノ関の次女と婚約を発表。形勢は完全に逆転した。

この動きを事前に察知していた押尾川は前日の4日に強硬手段に出た。小結・青葉山、幕内・天竜の含む16名を引き連れ東京は谷中にある瑞輪寺に籠城した。

独立問題はこの後も話し合われたが、合意には至らず9月場所を迎えた。やはり師匠のいない力士は本場所に出場出来ないので一時休戦し、力士は部屋に戻り土俵に上がった。場所中も一門内で話し合いは持たれ、小結・青葉城を含む6名の力士の移籍と部屋独立で合意が結ばれた。

天龍は押尾川部屋への移籍を強く望んでいたが叶わなかった。嫌気のさした天龍は66年9月場所後に廃業し、プロレスラーに転身した。




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