片男波独立騒動
-部屋独立問題に巻き込まれた現役力士が一時廃業状態に-

1962年5月、元関脇・玉乃海の片男波と元大関・佐賀ノ花の二所ノ関の間に弟子移籍を巡る問題が勃発した。

1961年1月場所後に引退し独立した片男波は二所ノ関から「独立後一年経過したら預り弟子を連れて行って良い」という約束が交わされていたと主張する。

預り弟子とは引退後独立を視野に入れる関取が現役中から弟子を集め、現在の師匠の下に預け、独立後に引き取る弟子のことである。

片男波も現役時代から弟子を集め、その数は20人以上となっていた。自分が連れてきた弟子には四股名に自身の現役時代の四股名から「玉」の字を入れていた。

ところが、二所ノ関は弟子の移籍に消極的で約束が守られていないとして62年5月場所直前、弟子に引き揚げを呼び掛け19名がこれに応じた。強硬手段に二所ノ関も反発し、関取2名と期待の幕下である玉兜、玉乃島の計4名と6名の未成年力士を除いた9名の廃業届を提出した。


本来の手続きは師匠が協会に届けを提出し理事会の承認を得なければならない。今回の移籍は本来のルールに乗っ取ったものではない。しかも場所直前のタイミングでだまし討ちに近いものを二所ノ関は感じたのだろう。

ではなぜ二所ノ関は移籍を認めなかったのだろうか?

20名近くも引き抜かれれば、部屋へのダメージは大きい。部屋から活気は無くなるし、力士の頭数だけ協会から支給される力士養成費は部屋の貴重な収入だ。だが、実は二所ノ関が移籍を認めなかったのは2名の関取と期待の幕下である玉兜、玉乃島の計4名のみで残りの15名に関しては認めていた。

二所ノ関は「4名は2年間待つように」と主張した。二所ノ関は1964年の理事長選を目指しており、2年後の選挙での2名の関取に加えそれまでには関取になっているだろう両幕下力士の4票を確保しておきたかったと思われる(当時は関取以上に投票権があった)。


さて、土俵に上がれなくなった9名の力士を何とかして救済しようという動きが活発化し出したが、既に本場所が始まっている状況。二所ノ関が折れる形で本場所5日目にようやく復帰願いが協会に提出され、9日目から復帰が認められた。地位に関しては現地位より10枚下げられ、二所ノ関、片男波の両親方は謹慎も併せて発表された。

一応の決着はしたものの現役力士を巻き込んだ大混乱となった。




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