横綱降格騒動
-不成績横綱を大関に降格させるか否かで大混乱-

横綱はどんな成績でも大関に降格をすることはない。

相撲を少しでも見る人なら知っている常識であり、明治以降の伝統でもある。この常識が崩されたのが1950年1月18日である。

前年の11月場所に起きたシールズ事件により前田山は強制的に引退、横綱を見る目が厳しくなる中で迎えた1950年1月場所は目を覆いたくなるような場所となった。

羽黒山、東富士、照國の横綱3名体制で場所は始まった。初日こそ3横綱揃って白星、大関は汐ノ海が吉葉山に敗れたものの他の3大関はきっちり勝って締まったスタートを切った。

ところが、2日目に照國、東富士がともに敗れる波乱。ここまではよくあるが、3日目から東富士が左足首捻挫で休場、4日目からは照國も休場。信じられない光景はまだ続き、残った羽黒山に期待したいところだが、これも5日目から右足首を痛めて休場。3横綱が揃って序盤で消え去った。

ファンは激怒。協会には非難が殺到し、本場所5日目の1月18日に緊急理事会をを開催し驚愕の決定をする。

「横綱と言えど、2場所連続で負け越し、または休場の場合は大関の地位に落とす」。

横綱も降格する-。この決定の直後から世論は一変する。横綱に対する怒り、非難はかき消され、一転して「横綱を守れ!」の大合唱となる。

大騒ぎの中、責任を感じさすがに悪いと思った東富士が7日目から再出場、11日目からは羽黒山も土俵に戻ってきた。この騒動の場所で優勝したのは大関の千代の山。千代の山は新大関の前場所も優勝しており横綱昇進は間違えないケースだが、不幸にも混乱の最中。昇進は見送りとなる。

千秋楽翌日の1月29日、協会は横綱降格ルールを白紙に戻すこと、併せて横綱審議委員会を設けることで事態はようやく沈静化に向かった。明治以降の「横綱は降格しない」という不文律は徳俵で残ったのである。

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