宝川襲撃事件
-大関・玉錦の依頼で山口組が宝川を襲撃-

力士の手本となるべき大関が暴力団に反目していた力士を襲撃させたという現在ではちょっと考えられない事件が起きたのは1932年3月の大阪巡業。

玉錦は後に横綱にも昇進するが、後援会長が山口組二代組長・山口登が後援会長で義兄弟の盃を交わす仲。玉錦自身も激昂しやすい性格でケンカばかりしているのでケンカ玉というあだ名が付いていた。

事件のきっかけは玉錦が大阪巡業で春秋園事件以来協会側から離脱していた宝川の後援者からのご祝儀を断ったという些細なもの。両者は口論となり、宝川自身も「山口(組)でも何でも呼んでこい。宝川は逃げも隠れもせん。山口に宝川がそういってるといえ!」と発言。これを聞いた玉錦は山口組に宝川襲撃を依頼した。

山口組は西田幸一、山田久一、田岡一雄らが菊水館という旅館に宿泊中の宝川を襲撃する。寝ていた宝川を叩き起こすが、宝川もなかなか謝ろうとせず、ついに田岡は殺意を持って短刀を宝川の頭上から振りおろすが、さすがにまずいと思った玉錦が制止したことで手元が狂い宝川は右手小指と薬指の半分を切り落としされただけで済み、土下座をすることで許されている。玉錦も「殺さんでもええやないか」と田岡に懇願した。ちなみに玉錦と宝川は同じ高知県出身で宝川の方が3歳年上で実はもともと仲良しだった。

宝川は1933年1月に天竜一派を離脱し協会に戻ってくるが、当時は協会から離脱中だったこともあり玉錦は不問とされた。現在なら除名どころでは済まされない。暴力団との交際が分かった時点でアウトだ。時代はなんとも大らかな時代であった。

ちなみに宝川は協会復帰後の1933年5月場所で10勝1敗で優勝同点の成績を残しており、襲撃が原因で土俵を去ったという話は誤りである。

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