春秋園事件
-関取48人が離脱した大相撲史上最大の騒乱-

今でこそ関取は100万円を超える月給が支給され、余程のことがなければ安定した生活が送ることができる。しかし、昭和初期は違っていた。

関取の生活は困窮を極め、後援者に金を工面してもらったり、師匠から借金をしたりして凌いでいた。借金はどうやって返すかというと養老金、つまり退職金で返済するというカラクリになっている。そうなると当然、力士はお金を貸してくれる師匠はいくら収入があるのかと考えるが、それが協会によって公開されていない状況。

不満を募らせていた力士の一人が関脇・天竜三郎。天竜は後援会や一部の出羽海部屋力士に反乱を起こす事を1931年6月頃には伝えていたとされる。

1932年1月6日、天竜は出羽海一門の全関取に「俺がおごるから」と大井にある中華料理店・春秋園に来るように要請。店内2Fの勤王の間に集まった力士や関係者を前に天竜は懐から紙を取り出して読み上げた。以下の10ヶ条からなる協会への改革要求書であった。

@相撲協会の会計制度の確立とその収支を明らかにすること
A興行時間の改正、夏場所は夜間興行にすること
B入場料の値下げ、角技の大衆化、枡席を少なくし、大衆席を多くすること
C相撲茶屋の撤廃
D年寄の制度の漸次廃止
E養老金制度の確立
F地方巡業制度の根本的改革
G力士の収入増による生活の安定
H冗員の整理
I力士協会の設立と力士の共済制度の確立


参加していた力士は1名を除いて全員が出羽海部屋の力士。当時の幕内西方は1名を除いて全員が出羽海部屋所属力士、残りの1名の小野川部屋の錦華山も参加していた。つまり幕内西方は全員終結していた。三河島事件までと異なり大関も参加していた(もっとも反乱の決起会と知らずに来た力士も多くいたが)。

協会はこのまま籠城に入った天竜一派の説得を試みる。春日野(元横綱・栃木山)らが説得に当たるが、物別れに終わる。

協会側は力士側の要求に対してほとんど満足な回答が出来ず、9日に一派は脱退届を提出し、協会側も籠城力士を破門した。脱退した天竜一派は自らを新興力士団と名乗った。

一方の東方力士も9日晩に単独では興行を行わないことを確認。協会も12日、14日から始まる本場所初日の延期を決定。

ここで力士団側から離脱者が出る。新大関として1月を迎えるはずだった武藏山が脱走。さらに14日には天竜が外出中の隙をつく形で右翼団体・国粋会が仲裁に入るが、力士団の団結は固くこれを拒否する。さらには東方力士からも協会から離脱し革新力士団の結成を表明するなど騒乱は東方にも飛び火した。

協会は警視庁にも調停を依頼したが、上手くいかず、22日協会は初日を2月3日に開催することを表明する。さらに25日には武蔵山の復帰も発表された。

新興力士団も2月3日から6日間の東京は根岸で旗揚げ興行を敢行。天竜は飛行機から宣伝ビラを撒き、四本柱を撤去し、行司は主審、呼出しはアナウンサーとなんとも斬新な興行を行った。31人の力士はA、B、Cと3つのクラスに分けられ総当たり戦を行い斬新さから興行は成功に終わった。

さらに7回戦、10回戦という形式の取組も導入。当時ブームになっていたボクシングの影響を受けたようで、1分のインターバルをおいて、同じ相手と10回戦なら1日10回対戦するハードなもの。

協会側も延期していた初日を2月22日から開催。関取62人中47名が離脱する中、十両や幕下から大量に昇進させ番付を埋めたが、興行は不調に終わる。

3月には新興力士団と革新力士団が合併し大日本相撲連盟が成立。

ところが、5月にまた一人離脱者を出す。206pの出羽ヶ嶽である。「文ちゃん」の相性で親しまれていた出羽ヶ嶽の離脱は人気面で影を落とすと、12月には20名の離脱者を出してしまい形勢逆転。養老金問題で一定の進展が見られたからである。

なお、帰参力士も加わった1933年1月場所は離脱していた男女ノ川が全勝で優勝した。善戦したのは沖ツ海くらいで、玉錦も清水川も力の差を見せつけられた。前述のように同じ相手と1日10回対戦することもあったので相当鍛えられていたのかもしれない。

天竜一派は関西を拠点に33年1月、関西角力相撲協会を設立するが、限界は見えていた。

一方の東京側は双葉山の活躍で息を吹き返し、1937年12月についに関西角力相撲協会は全面降伏。

関西側の力士のうち17名は復帰したが、天竜は責任を取る形で廃業した。また天竜の他にも11名が廃業している。


この事件は相撲界の体質改善を鋭く指摘したものとして評価され、天竜への評価は決して低くない。そればかりか、1941年に相撲協会顧問に就任し満州巡業をバックアップ、戦後は解説者として活躍。出羽海一門友愛会の会長にも就任するなど、協会は天竜に相撲と二度と関わらせないなどの処置は取らなかった。相撲界の在り方を問うたとして逆に高い評価をする関係者も少なくない。




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