三河島事件
-衝撃的な結末-

国技館開館以降相撲人気は幾らか持ち直していたが、第一次世界大戦後の不況は相撲界にも押し寄せ1920年代に入るとやや下火になる。

1923年1月8日、回向院大広間で開催された力士会で司天竜から養老金倍増の動議が出される。これを柱に力士会は以下の3点を協会側に要求として突きつけた。

@養老金の倍増
A本場所収入の利益から力士に分配する金額を10%から15%にアップさせる。
B十両になった者が幕下に落ちてもそれ相当の処置を取る事。


協会側は12日から本場所が始まる事を踏まえて、「目下のところ財政状態からみて無理であるから、好転の見込みがつき次第、要求を満足させたい。春場所が12日から始まるのだから、この問題の解決は、場所打ち上げ後の 5日までに」と回答。

回答に力士側は態度を硬化。上野駅前の上野館に籠城する作戦をとる。

新橋倶楽部事件同様に横綱、大関は別格でありこの時代は協会と力士の橋渡し役というポジションであった。横綱の大錦、栃木山、大関の常ノ花、千葉ヶ崎、源氏山、立行司の木村庄之助、式守伊之助の7名は上野に赴き説得にあたる。

両者の間に入った7名だったが、協会側も市中に触れ太鼓を出していることを理由に本場所開催を強行に主張し交渉を拒否。そればかりか7名から本場所出場の確約を取り付けることに成功する。

これには力士側も激怒し、7名は力士側の信頼を失い調停役として役目を果たせなくなる。

力士側は上野館から退去し、本拠地を三河島の電解工場に移して独立興行開始の準備に入る。

協会内部の力では解決不能となり、所轄の相生警察署が仲介に名乗り出る。これに続き警視庁も調停に入り、力士達を回向院に呼び出して主張を聞いた上で、協会とも話し合い双方から一任を取り付けた。


赤池警視総監は以下の仲裁案を提示。

@養老金は五割増。
A財源確保の為、10日間興行を11日間興行にする。
B千秋楽には10日目までの引分、預りとなった取組を再び組む。


これを双方ともあっさり受け入れ、1月18日0時に警視庁で手打ち式が行われて解決。横綱、大関の面目は丸潰れとなった。

手打ち式の後に総監主催の日比谷平野家での和解の宴が行われる。ここで横綱・大錦が宴席を中座し、一人会場を後にする。

再び、大錦が戻ってきた時、会場は凍り付いた。

最初に驚いたのは雷であったとされる。

マゲを自らの手で切り落としていたのだ。


「横綱として調停に乗り出しながら閣下(ここでは赤池総監を指す)の手に委ねたことは不徳不明の致すところ、横綱の面目を潰した以上、土俵での自信も喪った。横綱としての責任上、相撲界には止まることができない」

と引退を表明。


この後、大錦は自宅に戻り駆け付けた記者たちを前に

「師匠(ここでは常陸山を指す)の墳墓のまだ乾かぬうちに、出羽ノ海部屋の力士までがこの運動に加わって、かかる紛擾を起こしたことは、部屋頭の自分として誠に申し訳なく思った。相撲道の最高権威たる横綱の栄位を辱めた責任を感じた」 

と語った。


問題は1週間の稽古期間を設け、1月26日返り初日を行い場所後の3月6日に正式に妥結する。無事に解決はしたが、人気、実力ともに栃木山と二分する強豪横綱・大錦を角界は思わぬ形で失う結果となった。

これ以降角界は栃木山の1強時代に突入する。


大相撲事件史トップへ