中村楼事件
-高砂の独裁に怒りが爆発-

各界の風雲児で知られる初代・高砂浦五郎。高砂改正組事件では一時会所(現在の日本相撲協会)から離脱した時期もあったが、年寄として復帰した。

現代の感覚だと復帰後も肩身が狭そうなものだが、高砂は伊勢ノ海らが退くと権力を強め、次々に改革を実施。ついには独裁体制を築いていった。

具体的な改革をいくつか列挙しよう。

☆番付を実力本位で決める(1882年6月より)。
☆土俵溜まりに記者席を設置し、広く大相撲を報道してもらえるようにした。
☆筆頭→取締、筆脇→副取締と名称変更。
☆取締は話し合いで決定方式から選挙方式に変更。
☆相撲会所から東京大角力協会に名称変更。
☆大衆化を図った(入場料金の明示化、接客の質の向上)
☆力士への収益配分の改善
☆横綱の名を初めて番付に掲載

こうした改革は支持も多かった一方で、独裁的な手法が問題にもなった。

1891年にはついに「永久取締」を宣言。これは他の年寄の反発で取り消された。

1895年6月場所6日目の鳳凰-西ノ海の一番では西ノ海の踵が出ていたが、高砂が西ノ海の踵が出ていた場所の土を掘り始め、「土の下は俵」という主張を展開し西方力士が激怒し、最終的に預りになった。

これが引き金となり、1896年1月場所初日、西方力士は会場に来なかった。協会は強風を理由に休場(初日そのものを)し、中村楼に立て篭った33名の西方力士は高砂排斥を要求。

年寄も高砂の独裁には頭を痛めていた為、雷らが中心になり改革を約束。高砂独裁体制は崩壊した。


大相撲事件史トップへ