高砂改正組事件
-待遇改善を求め、高砂一派が会所を離脱-

角界の風雲児で知られる初代・高砂浦五郎。

高砂は幕下時代にも待遇改善を求め、250名を率いて会所に直訴した過去がある。この時は結局、有耶無耶になってしまい不満が燻る中で、1873年に不満がついに爆発した。美濃(現在の岐阜県の大部分に相当)での巡業中に決意し、名古屋に場所を移して本陣とし、会所(現在の日本相撲協会)に対抗した。

まず、高砂一派であり高砂と旧知の仲である大関・綾瀬川が東京に出向いて会所側と交渉。これが不調に終わった上に、綾瀬川は説得されてしまい一派から離脱した。

さらに会所は11月場所の番付で名古屋に留まる高砂一派の名前を墨で黒塗りした。

ここに至って高砂は独立を決意し愛知県の許可を取り、高砂改正組を組織。会所から独立した。

改正組は20名にも満たなかったとされる。

1875年からは東京に進出し興行していたが、1878年以降は規制により東京で自由に興行ができなくなってしまった。地方で活動を続けたものの、宿代の問題が噴出し、仲裁もあって会所に「復帰」することになった。

「復帰」といっても、東京会所と高砂改正組による対等合併。高砂改正組は10名〜20名ほどで宿代の問題等で興行が不能な状態になっての合併のはずなのだが・・・。

形だけの対等合併と言い切ることもできず、年寄として会所入りした高砂は独裁体制を築いていった。

この独裁が中村楼事件を引き起こす。


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