嘉永事件
-弟子を優遇する中改め・秀ノ山に他力士が激怒、ストライキに-

歴代横綱の中で最も背が小さい9代横綱・秀ノ山。小さな体を持ち前の負けん気でカバーした相撲人生であり、引退後も年寄として協会運営に参加。テキパキとした仕事ぶりは高い評価を受けていた。

そんな彼が事件を起こしたのは1851年。中改め(現在の審判委員に相当)を務めていた秀ノ山は自分の弟子2名を優遇して他力士のストライキに発展した。

当時は入門志願者が激増していた時代で前相撲と序の口の間に位置する本中力士が100名を超えている状況。かつては本中力士は2日に1回のペースで取組を行っていたが、それも3〜4日に1回というペースに落ち込み昇進が遅れる力士が続出した。

その情勢下で秀ノ山は赤沼と萩ノ森という弟子2名を必ず2日に1回のペースで土俵に上げていたので他の本中力士は激怒。2月場所5日目に結束して1人も場所入りしないストライキにうってでた。ストライキ力士達は回向院の念仏堂に籠城し、秀ノ山と会所(現在で言う協会)に反省を求めたが、会所側は番付にも載らない本中力士を甘く見て、前相撲や相中力士を繰り上げて開催を強行した。

これに本中力士サイドは激昂し、「斯くなる上は秀ノ山を打ち殺して一同揃って脱走するより他に手は無し」と決議し、竹槍で武装し襲撃準備を進めた。さすがの会所側も事態の深刻さをようやく理解し、秀ノ山を引っ張り出し、回向院に駆け付け謝罪。一応の決着を見た。


大相撲事件史トップへ